判断基準崩壊(新医療用単語)

今日は那須大亮クンの誕生日だそぉで。
おめでとぉございます。
坊主になって
さらに茶髪になって
浦和戦出れないんだって。
悲しいぢゃないか。
ファンタジーサッカーでクラブ創立当初から戦った仲ぢゃないか。
早く戻ってきてくれ〜。
−−−−−−−ー
こぉ暇なんですよね。
そぉしますとね
自分は本当は何をしたいのかなぁなんて考えるわけですよね。
誰が言ったか忘れたけど
人間は奉仕か自慰かどちらかに分けられるんだってさ。
仕事で例えて言えば
消費者が欲しがっているものを提供する方と
自分の欲しいものを提供する方。
私はどっちでしょおねぇ。
私はどんな奉仕さえ自慰的な理由がないと納得できないので
やっぱり自慰かしらねぇ。
ボランティア活動でも
「綺麗だと自分が気持ち良いから」
使命感だとかでする作業・仕事でも
「会社の成績が良いと給料が上がるから」
等の理由ぢゃないと納得いかない。
世界平和だとかのために奉仕活動するのは
やっぱり平和になった世界を自分が見たいからでしょ?
相手の幸せを願わないわけぢゃないよ。
愛してる方々の幸せも祈ってるし
知らない人の幸せを祈る事だってあるよ。
でもそれはその人が幸せだと
結局自分が幸せになれるんだから。
だとしたら徹底的に自慰を追及して
生きていくべきですよね、私。
なんつって。
だから、嫌いだとか好きだとかぢゃなくて
これは自慰か自慰ぢゃないかで全てを判断してはどぉだろぉか。
うんうん。
私にとっては
障害者専用の駐車スペースに車を停めてる人を一喝することも
プラネタリウムで携帯をいぢる人を一喝することも
自慰です。
すごくそういぉ自覚があるの。
それで困っている人を思って言うより
それを利用したくて迷惑している人を見て
何も出来ない自分がイヤ。
ね?自慰でしょ?
自分が一番気持ち良くなりたいの。
それも自分で自分をそぉしてあげたいの。
だから市場のニーズに応えて云々って言う
マーケティングの授業なんかは
ホント他人事でしたね。
誰かがするんだろぉみたいな。
それだったら統計の数値を元に
ここに工業団地を作ろぉ!みたいな
産業立地論が好きだったりするわけ。
わかりずらいかなぁ。
でも自慰を貫くといことは
自分にとって何が一番気持ちが良いのかを
ちゃんと見ていなければならないわけで。
それが揺らいでしまうと
すぐやらされてる感が募り
苦しくなってしまうんぢゃないかいね。
そぉしたらきっと見返りとか
後から思い出してウンザリするよぉなことになるんだろぉなぁ。
「せっかくここまでしてあげたのに!」
みたな発言をしてしまうんだろぉなぁ。
話がちょっと脱線するが
ウチの母は簡単に言ってしまえばちょっと精神的に弱い人である。
鬱だか更年期だか知らないが
なんだか弱い人である。
そんな母を見て
やっぱり娘だしどぉしよぉかと
一緒に考えたりした。
んで、最近良く思うのは
彼女が今まで持っていた判断基準が崩壊したのかなぁと思った。
兄が結婚して
脳腫瘍で倒れて
仕事を辞めて
主婦になって
私が家にいなくなって
共働きで忙しくしていた時とは全く違う生活になったわけで。
他にもいろんな理由があるだろぉけど
判断基準の崩壊が
彼女を弱らせた一つの理由だと思う。
だからこそ
自分がどぉしたいのか選択する時に
基準となるモノを持っていたいとスゴク思う。
それが『自慰』になるかはまだ分からないけど
今はその言葉が一番しっくりくる。
しばらくはこれに執着してみよぉかな。