↑と[大泉枠]で書いたのですが
眠いです。
ので、ブログでも。
最近中学3年当時の文集を発見し
読んでみたのですが
年を取るたび
自分の書いたことが不可解でしょおがなくなることは
さて、置き
担任のページなど初めてちゃんと読みまして。
いや
私はこの担任の先生は
結構好きだったのですが
読まなかったみたいですね。
読まなかったのか
読んで忘れたのか…。
そのページには
三好達治さんの詩が添えられていました。三好達治詩集 (新潮文庫)
『昨日はどこにもありません』
題名からだいたい内容はお察しのことと思います。
『昨日』は
箪笥や机の抽出しにもない
この部屋は『今日』の部屋であり
このスリッパも
この時計も
この悲しさも
『今日』のこと。
それについて担任は
過ぎ去った日は二度と戻らない
理想の自分をイメージし
実現して欲しいと
餞の言葉を書いております。
字が非常に丁寧で
内容が簡素でそっけなささえ感じる。
あの方らしいと思いました。
そんな風に前向きに捉えて
餞の言葉にすることも
あの方らしいと思いました。
ぢゃあ
『昨日』はどぉしたんでしょおね。
『昨日』はあったはずなんですよ。
心の中にあるんですかね。
それは使い古された言葉で
全然響きません。
『昨日』は確かにあったんですよ。
過去があるから今がある。
でも『その過去』がなくても
今があるかもしれない。
それでも
『昨日』はどこかにあるはずです。
そぉぢゃないと毎日毎日
『明日』のために机に向かう
気力もなくなるってものです。
『昨日』はどこにでも存在します。
『今日』の私自身が
『昨日』があったことの証明。
なんて
日々成長していると
自信を持って言いたいなー。
願望オチ。